【国内旅行記(3)】八尾市
今回は大阪府の八尾市を取り上げます。
・澁川神社
・澁川天神社
・跡部神社
・大聖大勝寺
・物部守屋大連墳
・鏑矢塚
・弓代塚
・樟本神社
・稲城址
・弓削神社(東・西)
・矢作神社
八尾は旧河内国で、前回紹介しました通りニギハヤヒの子孫である物部氏
と深い繋がりのある場所です。
奈良から大阪へ流れ出る旧大和川の流域にあり、河内物部氏の本拠地
だったことで知られています。
6世紀に蘇我氏と対立したあの物部氏ですね。
JR八尾駅から南へすぐのところに澁川(しぶかわ)神社があります。
ここが物部氏の旧邸宅があったと伝えられる場所です。あの物部尾輿(おこし)や
物部守屋(もりや)たちがこの辺りで生活していたと考えるとワクワクしますね。
物部氏の祖ニギハヤヒが祭神となっています。
また澁川神社から西へ5分ほど歩いたところに「澁川天神社」がありました。
澁川廃寺とも言われるところで、かつて物部氏の氏寺だったようです。
なお、さらに西へ2kmほど行くと「跡部(あとべ)神社」があります。
物部氏の一族である阿刀部連が居住していた地とのこと。
この渋川神社、澁川天神社、跡部神社そして後で述べる弓削氏の弓削神社が全て
旧大和川沿いに並んでいるのはもちろん偶然ではないでしょう。
物部氏一族で旧大和川の水運を掌握していたものと考えられます。
ここから南方には、蘇我氏と物部氏が争った丁未の乱の古戦場が広がります。
その傷跡は今でも生々しく残っており、個人的には強く念を感じる場所です。
大聖大勝寺は、その名の通り聖徳太子・蘇我氏側の戦勝を祝って
建てられたお寺です。
境内には聖徳太子を物部氏の攻撃から守ったとされる大樹、
門前には敗死した物部守屋の首を洗ったと伝わる池が残されています。
少し南に下がったところには、守屋を射倒した矢と弓を埋めたと言われる、
鏑矢塚と弓代塚もあります。
ここまでするのか。苛烈な敗者への仕打ち・・・
さらに南に数100m進むと物部守屋が戦に備えて築いた稲城の跡が残されており、
稲城の中に生えていた大きな樟(榎とも)を祀った樟本神社があります。
大聖大勝寺から車道に沿って数10m東へ進むと物部守屋の大連墳が見えてきます。
建物に挟まれてポツンと立つこの墓は、誰にも顧みられることなく
真横を車がビュンビュンと通り過ぎます。
しかしなんとも言えない強烈な念を放っています。
少なくとも私にはそう感じられました。
墓の周囲には全国の名だたる神社からの寄進を受けた石碑があります。
物部氏やニギハヤヒを祀る神社は全国に数多。彼らの無念の思いが辺りに
充満しているように感じました。
所変わって八尾から東方へ数kmほど、弓削(ゆげ)にやってきました。
あの道鏡を輩出した弓削氏の本拠地で、弓削氏は物部氏の一族です。
彼は"相棒"であった称徳天皇を今の弓削神社に招き、弓削宮(ゆげのみや)を造営しました。
もしかしたら、道鏡とこの女帝は、蘇我氏を滅ぼした藤原氏(中臣氏)が実権を握る時代
において、物部氏の復権を計ったのかもしれませんね。
ここまで紹介してきました通り、八尾は物部氏と切っても切れない縁のある場所でした。
丁未の乱で滅ぼされ7世紀以降日の目を見ることのなかったニギハヤヒの子孫達の
数少ない繁栄の跡が、この地には確かに残っています。
八尾は歴史的観光スポットの多い大阪府の中でも日頃大きな注目を浴びる街ではありません。
しかしこういった歴史を知る者として、彼らの無念の思いに心を致し
八尾の名前とともに語り継いでいきたいと感じました。